2026年7月
健康・検査のこと痩せる注射、その薬は誰のもの?|検査技師の母から、娘と若いあなたへ
「打つだけで痩せるらしいよ」
そんな話を耳にして、少し身構えました。
いま、若い人たちのあいだで、体重を落とすための注射が話題になっているそうです。名前を聞いて、私は「あ」と思いました。それは、検査室で毎日のように見ている、糖尿病の患者さんの薬の名前だったからです。
その薬は、病気の人が使うものです
マンジャロという薬があります。日本では、2型糖尿病の治療薬として承認されているものです。血糖のコントロールがうまくいかない方に、医師が慎重に選んで使う薬。体重が落ちる作用があることも知られていて、そこが「痩せる薬」として広まってしまったようです。
同じ成分(チルゼパチド)で、肥満症の治療薬として承認されたものもあります(ゼップバウンド)。ただ、こちらも「太っている人なら誰でも」ではありません。厚生労働省が使い方の指針を出していて、対象になるのは、たとえばこんな方です。
・BMIが27以上で、肥満に関連する健康障害(高血圧・脂質異常症・2型糖尿病など)を2つ以上持っている
・または、BMIが35以上
・そのうえで、高血圧・脂質異常症・2型糖尿病のいずれかがあること
・さらに、6か月以上、食事と運動の治療をしたうえで効果が足りなかったこと
(厚生労働省「最適使用推進ガイドライン」より)
読んでいただくと分かると思います。これは、痩せたい人のための薬ではなく、病気の人のための薬なんです。それも、これだけの条件をひとつずつ確かめて、やっと使われる。
もちろん、美容目的で使う場合は保険がききません。自由診療——つまり、全額自己負担です。「お金を払うのだから、私の自由でしょう」と言われれば、そのとおりかもしれません。それでも、検査室で血糖値と向き合っている者としては、病気の人のための薬が、そうでない人の「見た目」のために使われているという事実に、どうしても、ざらりとしたものが残るのです。
血糖の数値そのものの話は、空腹時血糖とHbA1c、どう違う?にまとめています。
全身麻酔が、こわいということ
もうひとつ、驚いたことがあります。
海外へ、美容の施術を受けに行く方がいるそうですね。近くて、日本より安く受けられるから、と。旅行のついでに、という感覚なのでしょうか。……正直、私の世代にはない発想でした。
もちろん、技術は進歩しています。上手な先生も、たくさんいらっしゃると思います。それでも、私の頭に浮かんでしまうのは、こういうことです。
手術は、体にメスを入れることです。 顔でも体でも、その下には神経や血管が走っています。全身麻酔なら、呼吸も、意識も、いったん医療にあずけることになります。日常的に行われている、安全性の高い方法ではありますが、体に負担がかからない、というわけではありません。
そして、どんな医療にも「絶対」はありません。うまくいった人の話が並ぶその陰に、そうならなかった人も、必ずいるはずなんです。
その中に、自分は入らない。 ——たぶん、そう思えるのだと思います。私も若いころは、そうでしたから。
検査室から見ていると、思うこと
私は毎日、病気と向き合っている方を見ています。
治したくても治せない体と、どうにか折り合いをつけながら過ごしている方。検査のたびに、数値に一喜一憂している方。手術を受けるかどうか、何日も悩んでいる方。
そういう場所にいるからでしょうか。健康な体に、あえて手を入れるという選択を聞くと、どうしても、ひと呼吸おいてしまうのです。
これは、美容医療そのものを否定したいのではありません。それで前を向ける人がいることも、想像はできます。ただ——健康というのは、あるうちは、あることに気づけない。それだけは、この年になって、心から思うのです。
その広告は、誰が出しているのでしょう
もうひとつ、気になっていることがあります。
こうした施術や注射のことを、いまはSNSで知る人が多いのだそうですね。きれいになった人の写真、before と after、割引の案内。流れてくるたびに、「みんなやっている」「私も遅れているのかも」という気持ちになっていく——そういう仕組みなのだと思います。
でも、そこで一度だけ、立ち止まってほしいのです。
あの投稿や広告は、多くの場合、それを売る側が出しています。 商品を選んでもらうために作られたもので、うまくいかなかった人の話が並ぶことは、まずありません。医療の情報としてではなく、宣伝としてそこにある。それだけは、忘れないでいてほしいのです。
そして、こういうものは、少しずつ大きくなっていきがちです。最初は小さなことのつもりでも、慣れてくると、次が気になる。気づけば、もっと大きな施術を考えている。……そんなふうにエスカレートしていくのが、私は、いちばんこわいと思っています。
50代になって、やっと分かったこと
そして、いちばん言いたいのは、ここかもしれません。
若いころの私は、自分の見た目が、いつも気になっていました。この鼻が、この輪郭が、この体型が。誰かにどう見られているか、そればかり考えていた時期があります。
でも、50代になって、ようやく分かったことがあります。
人は、自分が思うほど、こちらを見ていない。
拍子抜けするくらい、見ていないんです。あんなに気にしていたことを、まわりは誰ひとり覚えていない。悩んでいたのは、いつも自分ひとりでした。
これに気づくのに、私は何十年もかかりました。もっと早く知りたかった、とも思います。でも、たぶん、これは言われて分かることではないのでしょうね。私自身、若いころに誰かに言われたとして、聞く耳を持ったとは思えませんから。
娘へ、そして若いあなたへ
ここまで書いてきて、白状します。この記事を書いているいちばんの理由は、自分の娘のことです。
娘が何か大きなことをした、という話ではありません。ただ、こういうものが当たり前にある時代に、娘は生きている。それだけで、母親というのは、勝手に心配してしまうものなんです。
面と向かって言えば、たぶん煙たがられます。「わかってる」と言われて、それで終わり。私も、自分の母にそうしてきましたから。だから、ここに書いておきます。
急がなくていいと思うのです。 今日いちばん気になっているその部分は、5年後、たぶんもうそんなに気にしていません。逆に、そのとき手を入れた体とは、この先ずっと付き合っていくことになります。私がいま、50代の体と付き合っているように。
そして、これはぜひ覚えておいてほしいのですが——病気ではない人が、痩せる薬を長く使ったときに何が起きるのか。それが分かるのは、これからです。 いま使っている人たちの体が、10年後、20年後にどうなるか。その答えを、まだ誰も持っていません。あなたの体は、その答え合わせの場所ではないのです。
華やかな宣伝と、きれいな写真の向こう側。そこにある本質を、どうか見極めてください。
※ 治療や薬の適応については、必ず医療機関でご相談ください。この記事は、一人の臨床検査技師の実感として書いたものです。