2026年6月
仕事のひとりごと「株が下がってるの!」検査中に鳴った電話
臨床検査技師をしていると、ほんとうに、いろんな患者さんに出会います。
その日の午前9時過ぎ。検査台にいらしたのは、86歳の女性でした。お話好きで、社交的で、とにかくトークが止まらない。お一人暮らしだそうで、いやもう、お元気。元気が服を着て歩いている、という感じの方です。
検査が始まってしばらく、どこからか携帯電話が鳴りました。
張り紙はしていないけれど
うちは小さな病院です。「院内では携帯はご遠慮ください」——そんな張り紙は、実は出していません。出していないけれど、なんとなくみんなが分かっている、あの暗黙の了解というやつです。
ただ、年配の患者さんが多いので、ご家族からの緊急の連絡もあるかもしれない。だから、どうしてもという電話には、こちらもそっと目をつぶってきました。私のささやかな優しさ、ここにあり。
「電話に出たいの。どうしても」 「お急ぎですか? あともう少しで終わりますよ」
私の制止もむなしく、彼女は秒で電話に出ました。早い。
まさかの、現役トレーダー
漏れ聞こえてくる会話の様子では、どうやらお相手は証券会社の方。
「株が下がっています、どうしますか」——そんな内容だったようです。
一瞬、「まさか、詐欺の電話!?」と身構えた私。でも、どうやら本物のやりとりらしい。 86歳、現役トレーダーでした。
電話を切った彼女が、ひとこと。
「もう血圧上がっちゃって、心臓バクバク。これ、検査の結果に影響するわよね?」
……いえ、それはたぶん、株のせいです。 今まさに、ご自身で結果を動かしにいっていますよ。
本日の戦績、株1 − 私0
結局、検査は10分ほど中断しました。後ろには、次の患者さんも控えています。
胸の中では「検査中ですので〜」のひとことが、ずっとスタンバイOK。なのに、口からは何も出てこない。ベテランの顔をして検査台の前に立っているくせに、おばあちゃん一人に、主導権をまるごと持っていかれてしまいました。
本日の戦績、株1 − 私0。
お元気なのは、本当にいいことなんです。社会とつながって、株価まで追いかけて。立派だなあと思います。ただ、その勢いで、血圧と心拍と、ついでに私のメンタルまで一緒に持っていかないでほしい。それだけ。
お元気な高齢の患者さんと、どう向き合うか。 「検査中ですので」。たった7文字が言えるようになるのが、私の今後の課題です。